LOGIN戸口に近い側のベンチへ座る者は、どうしても隙間風を受ける。火鉢の熱は中央には届くが、奥の壁際には回りにくい。濡れた手袋を置く棚と、乾いた毛布の置き場が近すぎて、湯気の湿り気が移る。どれも一つひとつは小さい。だが帰還した兵の肩の強張りや、洗濯係の女が保温室から出たあとにまた咳をしていたことを思い出すと、その小ささが気になってしまう。「ここも、少しだけ……」 セレフィアは火鉢の位置を見ながら呟いた。 一緒に来ていたバルタザルがすぐに反応する。「何かお気づきに?」 セレフィアは彼のほうを見た。老執事の目は、いつものように落ち着いている。驚きも否定もない。ただ、言うなら聞く、という静かな構えだ。「火鉢の熱が、入り口の風に負けている気がします」 セレフィアは言葉を選びながら続ける。 「戸口側へ低い衝立のようなものがあれば、少し違うかもしれません。あと……」 視線を棚へやる。 「毛布の置き場を、濡れ物からもう少し離せないでしょうか」 バルタザルは頷き、部屋の端から端まで目で測った。「衝立と、毛布棚の位置替え」 短く繰り返す。 「理にかなっておりますな」 その一言だけで、セレフィアはまた少し胸が熱くなる。理にかなっている。ここでは、それが何よりも大事な承認の言葉なのだ。 そして三つ目は、毛布の配布管理だった。 これはもっと些細なことのように見える。けれどセレフィアには、その些細さこそ放っておけなかった。城の中で使われる毛布は、厚さも織りも少しずつ違う。新しいもの、古いもの、補修されたもの、冬の盛り用の厚手、保温室用の中厚、客間の見た目を損ねぬよう整えられたもの。王都なら、そうした違いはまず「見栄え」と「格式」で振り分けられる。だがここでは本来、使う場と人で分けるべきなのだろう。 ところが実際には、補修に出す時期や戻る順がまちまちで、時折、厚手のものがまだ冷えの残る持ち場へ回らず、逆に軽い来客用のものが余っていることがあるらしい。ミレナが「洗い替えのたび、少し迷うことがある」と小さくこぼしたのが最初だった。 セレフィアはそれを聞いて、数を数えたくなった。 何枚あるのか。どこへ回っているのか。補修中のものは何枚で、次に戻るのはいつか。札をつけるだけで混乱は減るのではないか。色糸一本でも違いがわかれば、夜の配布で迷う時間も減るのではな
雪夜の小屋から戻って三日ほどのあいだ、城の空気は少しだけ忙しかった。 吹雪のあとには、かならず細かな遅れや傷みが出る。山道の様子を見に出た兵が持ち帰る報告、橋板のきしみ具合、荷駄の通れる幅、谷沿いの湿り気。どれもすぐに人が倒れるような大事ではない。けれどそうした小さなずれが、放っておけばじわじわと人の疲れや備蓄の目減りへつながるのだと、セレフィアはもう知っていた。 だから戻ってきた翌日から、彼女は城の中を以前より少し違う目で見るようになった。 東翼の窓際に置かれた薬草の束が、午前と午後で湿り方を変えること。巡回帰りの兵がまず立ち寄る保温室の火鉢が、部屋の端まできちんと熱を回していないこと。洗濯場の女たちへ配られる毛布の厚みが、日によって妙にまちまちであること。どれもぱっと見ただけでは「まあそういうものか」で流せる程度の差だ。けれど、一度気づいてしまうと、その差が誰かの喉や指先や眠りにどう響くのかが、ひどく鮮明に見えてしまう。 それは不思議な感覚だった。 王都にいた頃も、細かなほころびにはすぐ気づいた。姉の返書の癖、帳面の数のずれ、茶会の配分の足りなさ。けれどあちらでその目は、たいてい誰かの見栄えを整えるためだけに使われた。ここでは違う。城の中の小さな乱れが、人を少しでも楽にする方向へ繋げられるのではないかと、自然に考えるようになっていた。 きっかけになったのは、薬草乾燥庫だった。 薬草茶を配るようになってから、セレフィアはしばしばネリサと一緒に乾燥庫へ出入りするようになっていた。最初は必要な瓶を出してもらうだけだったが、やがて束の減り方や、乾燥の具合そのものが気になりはじめる。冬の終わりから春先にかけては喉や胸を守るための茶がよく出る。城の中で働く人間だけでなく、巡回から戻った兵も使う。ならば、乾燥の質が少し落ちるだけでも、効き方も煎じる量も変わってしまう。 その日も、セレフィアはネリサとともに乾燥庫の棚の前に立っていた。 外はよく晴れていたが、乾燥庫の中は陽があまり入らない。高い棚に並ぶ薬草の束と、布袋、瓶詰め。空気は乾いているはずなのに、扉の近くへ寄ると、ごく薄く湿りを含んだ風が流れ込むのを感じる。乾いた葉の匂いの奥へ、木の板が水気を含んだ時のような匂いが、ごくわずかに混じっていた。 セレフィアは一本の束を持ち上げ、指先でそっと葉先を確か
「帳簿のほころびにも、薬草茶にも」 セレフィアは毛布の端をそっと握る。 「小さなことだからと、決して流さないのは」 喉の奥が少し熱くなる。 「そこから人が失われることを、知っておいでだから」 ゼルヴァンは返事の代わりに、ほんのわずかだけ目を細めた。肯定とも否定ともつかぬ、その静かな変化だけで十分だった。たぶん、それが答えなのだとわかる。「大した話じゃない」 彼はやがてそう言った。 「よくある失敗だ」「でも」 セレフィアは、珍しくすぐに言葉を返した。 「それを“よくある”で済ませないところが、あなたなのだと思います」 言ってから、自分で驚く。こんなふうに真っ直ぐな言葉を彼へ向けたことが、今まであっただろうか。しかもこの狭い小屋の、火の匂いと吹雪の音の中で。 ゼルヴァンは一瞬だけ沈黙した。 それから、ごく低く息を吐く。笑ったのかもしれない。だがその笑いは表へ大きく出ない。火の明かりの中で、口元の線がほんの少しだけゆるむだけだ。「買いかぶるな」 彼は言った。 「俺はただ、二度同じ形で失うのが嫌なだけだ」 その率直さに、セレフィアの胸はかえって強く打たれた。謙遜でもなく、英雄ぶりでもない。ただ嫌だからだと、そう言ってしまえるところがこの人らしい。そしてその「嫌だ」が、結局は人を見捨てぬことへ繋がっている。 セレフィアは毛布の中で自分の指先をそっと開いた。胸の中の熱は、もう以前のように甘いだけのものではない。ずっと深く、ずっと静かな、けれど逃れようのない熱になっている。 この人のそばにいたい。 それはもはや、名前を呼ばれたいとか、近くにいて胸が乱れるとか、そういうだけの願いではなくなっていた。彼が守ろうとしているものの近くに、自分もいたい。この人が見捨てぬと決めたものの側へ、自分の意志で立ちたい。 それが恋なのだと、いまはもうはっきりわかる。 吹雪はまだ外で鳴っている。だが小屋の中の静けさは、先ほどまでと少し違った。火の明かりの中で交わされた短い言葉が、見えない形で空気を変えてしまったのだ。「……ありがとうございます」 セレフィアは低く言った。「何に対してだ」「話してくださったことに」 そして、少しだけ息を整える。 「それから……目の前の者を見捨てる気はないと、聞かせてくださったことに」 ゼルヴァンはし
「戦の時も……」 慎重に、そう口にする。 「こういう夜が、あったのですか」 ゼルヴァンはすぐには答えなかった。 その沈黙は長くはない。だが火のはぜる音と風のうなりのあいだで、その数秒はひどく濃く感じられた。セレフィアは、自分が不用意なことを訊いたのではないかと、少しだけ息を止める。 けれどやがて、ゼルヴァンは目を伏せず、火を見たまま言った。「あった」 それから、一拍置いて。 「もっと悪い夜も」 その声の低さは変わらない。だが、いつもより少しだけ奥が暗いように聞こえた。 セレフィアは何も言わず、ただ待った。彼が自分から言葉を足すのかどうかもわからないまま。外では吹雪が鳴っている。小屋の中には眠る兵の呼吸がある。こんな夜に、もし彼が少しだけ過去へ触れるのなら、それはきっと大きな物語ではなく、欠片のようなものだろうと思った。 そしてその予感は当たっていた。「若い頃」 ゼルヴァンは静かに言った。 「補給が遅れた砦へ入ったことがある」 セレフィアは、息を詰めるまいとしてそっと呼吸を整えた。「雪が早かった年だ。地図の上では間に合うはずだった。紙の数字も、日数も、兵の足も」 彼の視線は火へ落ちている。 「だが現実は違った。雪は予想より早く深くなり、道は半分埋まり、荷駄は一度止まり……」 そこで、ほんのわずかに唇の線が硬くなる。 「砦へ着いた時には、すでに遅れていた」 小屋の中の空気が、少しだけ変わる。 セレフィアは問い返さなかった。「何が」と聞くのは、ここではあまりに浅い気がしたからだ。代わりに、彼が選ぶ言葉をそのまま待つ。「戦で死ぬ者は、刃や矢だけで死ぬわけじゃない」 ゼルヴァンの声は低いままだった。 「寒さで弱り、腹が減り、傷が塞がらず、眠れず、判断を誤る。そういう小さなほころびが重なって、人は死ぬ」 その言い方に、セレフィアは胸の奥がひどく静かに痛んだ。 刃や矢だけではなく。寒さ、腹、傷、眠れなさ、判断の誤り。帳簿や市場や薬草茶の中で、自分が少しずつ見てきた「小さなこと」の積み重ねが、ここでは命と直結するのだと、あらためて知らされる。「その時」 ゼルヴァンは続けた。 「守ると決めていたものを、全部は守れなかった」 全部は。 その言い方がかえって重い。誰を、何を失ったのか。名を言わないからこそ、却
夜半を過ぎる頃には、吹雪の音は少しだけ変わっていた。 弱まったわけではない。むしろ、風は相変わらず小屋の外を走り、時折、壁を打つ雪の粒が乾いた音を立てている。だが、吹きつける勢いの中に、最初のような荒々しい乱れが減ってきたのだろう。さっきまでは四方から無秩序に叩きつけられているように聞こえた風が、いまは一方向へ流れを持ち、長く低く鳴きながら屋根を撫でていく。吹雪が小屋を飲み込むというより、小屋の周りを大きな獣が何度も回っているような、そんな音だった。 小屋の中は狭く、火の匂いと人の体温がゆっくり混ざり合っていた。 炉の火はもう最初ほど勢いがない。太い薪が赤く崩れ、時折、細い青い火がその隙間からのぞく。火の上にかけていた小鍋の湯はとっくに下ろされ、いまは壁際の木杯の中でぬるくなっている。眠っている兵は二人。毛布へ半ば埋まり、疲れの深い者特有の、重く鈍い呼吸をしていた。もう一人は戸口のそばで見張りをしている。だが風の音が強いせいで、靴を動かす小さな音さえ、すぐ外へ吸われて消えていく。 セレフィアは、完全には眠れていなかった。 目を閉じて、浅い眠りのようなものへ落ちかけては、風のうなりや木の軋みでまた意識の表面へ戻される。寒さは最初よりいくらかましだ。ゼルヴァンの外套と、古い毛布の重みが肩と胸をしっかり包んでいる。足先はまだ冷えるが、指先へは少しずつ血が戻ってきていた。だから眠れない理由は寒さだけではなかった。 彼が近くにいるからだ。 そう意識すると、胸の内側がまた静かに騒ぎ出す。狭い小屋の中、火を挟んで向かい合うような距離。外では吹雪が止まず、朝までここを出られない。その「朝まで」が、思っていたよりもずっと長く、甘く、落ち着かないものとして胸へ乗っている。 目を閉じたまま、セレフィアは小さく息を吐いた。 好きだと認めてしまったあとでは、距離のひとつひとつが以前と違ってしまう。外套をかけられたこと。毛布を直されたこと。低く「眠れ」と言われたこと。そのどれもが胸の奥へ沈み、火の残り熱のように消えきらずにいる。 眠れないのは、きっとそのせいもある。「起きているな」 低い声が、闇の向こうから届いた。 セレフィアは目を開けた。 炉の火の向こう、ゼルヴァンがこちらを見ていた。彼は小屋の壁へ背を預けるでもなく、半ば腰を下ろした姿勢で座っている。見張りの
しばらくして、兵たちのうち二人がうとうとしはじめた。疲れと安堵が一度に来たのだろう。風の音は変わらず強いが、小屋の中には火のはぜる音と、時おり木が鳴る低い音、誰かの寝息の気配が混ざるようになる。 セレフィアは眠れる気がしなかった。 狭い空間、近い距離、外の吹雪、そして自分の胸の落ち着かなさ。その全部が、目を閉じても体の中でまだざわざわと動いている。「眠れないか」 低い声がした。セレフィアは顔を上げる。 いつのまにかゼルヴァンが少しだけ近くへ来ていた。火を挟んで真正面ではなく、斜め横。ほかの者を起こさぬよう声は抑えられているが、それでもきちんと届く距離だった。「……少し」 セレフィアも同じように声を落とす。 「風の音が」「怖いか」 その問いに、セレフィアは正直に頷こうとして、途中で止まる。怖い。吹雪はたしかに怖い。けれど、怖いのはそれだけではない。こんなに近くにいて、こんなにも彼を意識してしまう自分の心もまた、少し怖い。「風は、ええ」 結局そう答える。 「でも……」 少し迷ってから、息をつく。 「前ほどではありません」 ゼルヴァンの眉がわずかに動く。「前ほど」「最初の頃なら、たぶん」 セレフィアは毛布の端を指でつまむ。 「もっと、何も考えられなかったと思います。怖くて」 その「怖くて」が何に向けられているのか、あえて言わなくても彼には伝わる気がした。ゼルヴァンは少し黙り、それから火のほうを見たまま言う。「いまは違うのか」 セレフィアは返事をすぐにはできなかった。 違う。そう言ってしまえば、何かがあまりにもはっきりする気がした。けれど嘘もつけない。いま胸を乱しているものは、恐怖ではない。少なくとも、彼に向けるものとしては。 火が小さく鳴る。外の風が壁を打つ。 その音のあいだで、セレフィアはようやく小さく答えた。「……はい」 それだけ。 それだけなのに、ゼルヴァンはもうそれ以上は問わなかった。追い詰めることをしない人だ、とあらためて思う。知りたければもっと踏み込めただろうに。だが彼はそこへ手を伸ばさず、ただ「そうか」とごく低く返した。 その一言が、どうしようもなくやさしく聞こえた。 セレフィアは毛布の中で目を閉じる。風はまだ強い。小屋は狭く、火は小さい。朝になれば、凍った道をまた戻らなければならない







